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説法と現代社会と倫理

仏教における「餓鬼」がただ物質的な飢えを示すだけでなく、満たされない心の欲求をも象徴しているということです。

テレビをつければグルメ番組、大食い大会なども開催されるほどに食に溢れています。外国人観光客へのインタビューではラーメンが食べたい、天ぷら大好き、すしは最高だねといった受け応えはもはや定番ですね。昔はあれだけ焼肉のカルビが好きだった、とんかつが大好物だったけど、段々と食べられなくなってくる。食について書き出すと止まりません;^^

本日は仏教でもおなじみの餓鬼について考えます。

「餓鬼」という言葉には、私たちの生き方について深い教えが含まれています。餓鬼とは、食べ物をむさぼり食いながらも、どれだけ食べても決して満たされることのない存在です。この姿は、まさに飢餓状況にある状態を象徴しています。ここで重要なのは、「餓鬼」がただ物質的な飢えを示すだけでなく、満たされない心の欲求をも象徴しているということです。

私たち人間も、物質的な豊かさに囲まれながらも、内面的に満足できないことが少なくありません。現代社会では、物質的な欲望が無限に膨らみ続け、多くの人が次々と新しい物や経験を求めます。しかし、どれほど物質的な欲望を満たそうとしても、心が満たされることがないことが多いです。まるで餓鬼のように、求めても求めても満足感が得られない――これが人間の欲望の本質です。

中国の善導大師は、お釈迦様を「満足大悲の人」と称しました。これは、お釈迦様が真に満ち足りた人であったことを示しており、彼の生き方こそが、私たちが目指すべき指針であることを教えています。

物質的な欲望を満たすことが生きる意味ではありません。むしろ、本当の満足は、欲望を超えたところにあります。お釈迦様のように、内面的な充足感と他者への慈悲をもって生きることが、私たちの人生を豊かにする鍵であると言えるでしょう。この教えを通じて、私たちは「餓鬼」の姿を自身に重ね、自分の欲望や生き方を見直す機会を得ることができます。

江戸時代中期に活躍していた観相家 水野南北 日本の人相・手相占いの元祖とされている彼が 残した言葉がある   腹八分目で医者いらず。 腹六分目で老いを忘れる。 腹四分目で神に近づく。

食欲の秋、忘年会新年会で思いっきり食べまくり飲みまくりといきたいところをグッと抑えようっと。修行修行。

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