京都の神社仏閣を巡る

随心院 真言宗善通寺派大本山 小野小町ゆかりの門跡 山科エリアその1

随心院の歴史について。

弘法大師より8代目の弟子にあたる、仁海僧正の開基。
一条天皇に奏請(天皇に強く物事を願い出る事)し、
この地を賜って一寺を建立。

古くは牛皮山万曼荼羅寺と称された。

第5世増俊阿闍梨(あじゃり)の時に
曼荼羅時の子房として随心院を建立。

第7世親厳大僧正が1229年に御堀川天皇より
門跡の宣旨を賜り、随心門跡と称されるようになる。

立派な七堂伽藍は承久応仁の乱により消失し、
1599年に本堂再建。

以後、九条二条両宮家より門跡が入山し、
両宮家の由緒をもって寄進再建される。

本堂には
本尊 如意輪観世音菩薩座像 鎌倉時代作を中心に
阿弥陀如来坐像
金剛菩薩坐像
薬師如来坐像
不動明王立像
がお祀りされています。

本堂の前には綺麗な庭園があります。

随心院のある小野の地は小野小町由緒の遺跡として知られている。
昔は小野氏が勢力を持っており、醍醐天皇陵東には小野寺と称する
小野一族の氏寺の遺跡が近年見つかる。

さて、小野小町といえば、
絶世の美女で和歌の達人とされていますね。
深草少将の百夜通い伝説は有名です。
随心院はそのお話の舞台になりました。
そのお話の内容が以下です。

深草少将が小町に求婚すると、小町は
「100日間、毎晩私の所に通い続けなさったら
その求めに応じましょう」と答えます。

その言葉に燃えた深草少将は100日通いを行います。
雨の日も雪の日もひたすら通いつづけます。
70日、80日、90日、ついには99日目。
100回目を目前にしたその日に深草少将は息絶えます。

一説には凍死したとも言われています。

カヤの実によって深草少将が来た数を数えていた
その実を後に小町は小町の里に播いたそうです。

さて、深草少将の屋敷は伏見の欣浄寺にあったとされています。
ここらの地名は深草である。

つまり、深草少将とは深草の地に住まう少将という
意味なのですね。

この深草の地から小野までは現在の道で5キロ
徒歩で1時間です。

この地域は名前の由来通り、大昔は深い草で生い茂っていた
と聞きますし、都の中心から離れており、
道の整備も不十分だった可能性もありますから、
今よりも遥かに長く険しい道のりだったのでしょう。

考えても見れば、100日間通ってくれって
随分と恐ろしい要求ですね・・・

小町に関してさらに触れていきます。
まず、晩年の小町をの姿をうつしたとされる
卒塔婆小町座像があります。

見た通り、お婆さんになった姿の小町が
当時の座法で座っている像です。

続いて、小町が歌った有名な歌のひとつが
小倉百人一種にあります。

「花の色はうつりにけりないたづらに
 我が身世にふるながめせしまに」

意味
春の長雨で桜の色がすっかり色あせてしまった。
私の美貌が恋愛や世の中のことで悩んでいる間に
老いてしまったように。

先程の像にしてもこの歌にしても
無常を感じますね。
普通は老いた姿の象なんて残したい
とは思わないでしょう。

奥深さを感じます。

最後に小野小町の屋敷跡に残る井戸を
見ます。こちらの水で朝夕の化粧をした
そうです。

化粧井戸を見て、帰路につきます。

甘く切ない哀愁漂う門跡でした。

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