京都の神社仏閣を巡る

日本三大怨霊 崇徳天皇が祭られる白峯神宮 今出川・西陣エリアその1

白峯神宮

この日は今出川駅を降りて西陣の方へと向かいます。
西陣とは応仁の乱の際に細川勝元率いる東軍に対し、
山名宗全率いる西軍がその西側500メートルの位置、御所の
西側に本陣を構えたことが名前の由来です。

西陣織で大変よく知られています。

まずは今出川より徒歩5分のところにある
白峯神宮を参拝します。

白峯神宮は崇徳天皇及び淳仁天皇を祀る。

崇徳天皇は鳥羽天皇と藤原璋子との間に生まれた第一皇子
だったのだが、実は祖父である白河法皇が璋子を寝取って
できた子供であったため、崇徳天皇は父から「叔父子」と呼ばれる
ことになってしまった。

この白河法皇は強力な院政を敷いたために、孫である鳥羽天皇は
幼い崇徳に譲位させられるなどして権力を弱められ、
思い通りにさせてもらえなかった。

しかし、やがて白河法皇が崩御すると、鳥羽天皇は復讐を始める。
崇徳天皇が正にその対象となり、謀略によって天皇の位も失い、
院政もできずに上皇という権力が宙に浮いてしまった。

この後、崇徳上皇の息子も父親に阻まれる形で天皇になれなかったため、
またしても実権を握ることが出来なかった。
こうなれば、当然ながら怒り心頭であっただろう。

ついに、崇徳上皇は皇位を争ってついに後白河天皇と1156年保元の乱で対峙。
しかし、有力武将が後白河陣営に付いたことで敗北。
讃岐の国へ島流しに。

その讃岐の国では仏教を深く学び、大乗経を写経(血でしたためたとも言われる)
し、京の寺に納めるように朝廷に差し出したところ、却下されて返却されると、
崇徳上皇は激怒。

自らの舌を噛み切って、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、
民を取って皇とならん」
簡単に訳すと「天皇家を滅ぼしてやる」といった感じになろうか。

崇徳上皇は爪も切らずに恐ろしい天狗の姿となって憤死する。
46歳であった。

この後、藤原忠通や後白河上皇の周辺人物が次々と亡くなり、
京都で2度の大火が発生するなど、災難が次々と起きると、
崇徳上皇の祟りが意識されるようになった。

この後、後白河法皇が崇徳上皇の供養を行ったものの、
怨霊の影響からか、天皇による政権は衰退し、力を持った
武士たちによる武家政権が誕生します。

この武家政権は1867年の大政奉還まで続く。

1868年に王政復古の大号令によっていよいよ天皇による政権が
復活した。明治天皇の即位式が行われる。

実は1866年に孝明天皇が讃岐にある崇徳上皇の神霊を
京に迎え入れようとするものの、崩御してしまう。

明治天皇は孝明天皇の遺志を継ぎ、
崇徳上皇の供養に早速着手する。

1868年に讃岐の白峯陵より神霊を京の地に迎えて、白峯神宮は
創建された。

明治天皇は崇徳上皇の無念を悼み、
新しく建てた神社の神として皇室を守護してもらうように祈願した。

次いで1873年に奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争いにより
淡路島に配流された淳仁天皇の神霊を迎え入れて合祀された。

さて、ここまではおどろおどろしい祭神のお話でしたが、
こちら白峯神宮がある地は蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸跡です。
そして、同家の守護神である「まり精大明神」が祭られていることから、
サッカーなどの球技愛好家の崇敬を集める神社として今は知られています。

社務所にはバレーボールやサッカーボール、バスケットボールなどが納められ、
あのキャプテン翼の著者高橋陽一氏のサイン入りボールもありました。

怨霊伝説だけあって、崇徳天皇の石碑の前は若干空気が重たかったものの、
神社全体としては心地良さを感じることが出来ました。

参拝していると、ラガーマンのような体付きの良い青年が丁寧に参拝していました。

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