京都の神社仏閣を巡る

新玉津島神社 烏丸四条~五条界隈を歩く その4

新玉津島神社

当社は1186年に後鳥羽天皇の勅命により、
藤原定家の父で歌人として名高い藤原俊成が、五條大路(現松原通り)烏丸
から室町にかけての自分の邸宅地に、和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られている
歌道の神「衣通郎姫」(そとおしのいらつめ)を勧請したことに由来する。

遡ること3年前ぼ1183年に後白河法皇の院宣により、俊成はこの邸宅を
和歌所として「千載和歌集」の編纂を始めた。

その年に木曽義仲(源義仲としても知られる)が京に攻め入り、
平家一門は都落ちすることになるが、門下の一人であった平忠度は
危険を顧みずこの屋敷に引き返し、自身の秀歌を集めた巻物から、
「一首なりとも選んでほしい」とこれを献じた話は有名である。

これに俊成は応じ、以下の一句を千載和歌集に載せた。

さざなみや 志賀の都は あれにしを 
むかしながらの 山ざくらかな

さざ波寄せる志賀の都はすっかり荒れ果ててしまったが、
昔ながらに長等山の山桜は美しく咲いている。

江戸時代には松尾芭蕉の師である北村季今が約7年間この神社の
宮司として住み、万葉集の注釈書「万葉拾穂抄」の編纂に励んだ。

歌に関する由縁から、今もなお、多くの人が俳句、短歌、文章の上達祈願の
ために参拝に訪れている。

良い句を書きたい方は是非とも訪れたい神社ですね。
菅大臣神社に続いて哀愁ただよう歌が残る境内でした。

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