昔の宗教家というのは霊的高貴さが顕われていたように思います。
現代において、立派な教理や教義を説く「優秀で立派」とされる教祖は数多く存在します。しかし、その中で、己の利益や快適さを犠牲にしてでも、信仰と奉仕の道を貫こうとする高尚な情熱を持った者は、非常に稀です。むしろ皆無と言っても過言ではないでしょう。その点において、五井昌久という人物はは例外的な存在として有名でした。自己の利益に囚われることなく、神への信仰と人々への奉仕に尽力し続けた人物であり、その点でやはり偉大な宗教家であったと言えるでしょう。
このような「本物」の宗教家の存在を知り、その生き様に触れることは、しばしば教義それ自体を学ぶこと以上に強い影響を私たちにもたらします。教義や教理は、言語化された理論であり、理屈で頭では理解できるかもしれませんが、それだけでは心に深い感動を与えることは少ないでしょう。しかし、実際にその教義を体現し、信仰の道を生き抜いた教祖自身の生き様は、言葉を超えて私たちに語りかけ、時に私たちの人生を変えるほどの生々しい力を持っています。教義のエッセンスを言語で説明するよりも、そのエッセンスを具現化した生き方を示すことで、より深く教えを理解させてくれるのです。
五井昌久はこのように言いました。
「祈りとは、まず自分の心を空っぽにすることである。それまでの自分をひとまず捨てて、神だけを自分の心に住まわせることである。
願い事は、すべて後回しにすることである。神だけを自己に住まわせれば、その人に必要な願い事は、すべて叶うのである。
小我の祈りは、その人をますます小さくするだけで、何の得にもなりはしない。
ただ、神だけを想うことである。愛だけを行ずることである。」
神社仏閣に行った際にはこのような心で祈りたいものですね。
コメント